早期リタイア・アウトドア旅行&日常備忘録「還暦プラス」

60代早期リタイア後の日常・東京拠点 国内外アウトドア&温泉旅行記

「歩活」自分のドラマ聖地巡礼③東京板場・漂流教室

歩活を兼ね「自分のドラマ聖地巡礼」3話目。

古くなった 昔の構造物はあるが 人がいない。

なんだか楳図かずおさんの「漂流教室」を思った。

 

さて大手町から 都営三田線で20分の板橋区役所界隈へ!

板橋は東京では北端で 埼玉県に隣接する区です。

私がいた頃は この地下鉄が 巣鴨から高島平まで

開通したばかりで 都営地下鉄6号線と呼ばれていた。

終点の高島平は 昭和40年初期に建った

住都公団(UR)の高層高密団地が林立しています。

リノベされた駅近の1LDK,2DKの家賃は8万円位、

古いですが 東京23区内では格安です。

 

かつて板橋区と言えば、志村・板場・蓮根 各地区に

第10小学校くらいまである 子供だらけの区でした。

今でも群馬の榛名に 林間学校があるようですが、

遠足では各校が集まってキャンプしたり、

多くの思い出と やんちゃ坊主期を育ててくれて、

東京都板橋区 ありがとうございました。

 

ところでこの界隈から新河岸川 荒川あたりまで

家内工業的を含め 工場が多かったですが

モノづくりの拠点が 中国やアジアに行った空き地に

手ごろなマンションが増え(土地神話はなんだった?)

けっこう昔のローカルが 土地に戻ってきており、

6両と短い三田線の通勤ラッシュは大変混むそうです。

東京の商店街もシャッター閉店が多い昨今、

旧中山道にある 仲宿商店街は今も活気があり、

大正3年~板五米店は飲食店になって、

平日も多くの方が集まってますね。

昔からの店舗も シャッターが下りる店は少なく、

仲宿は なかなか住みやすい町かも知れません。

陸橋は住んでいた頃に完成した首都高速

昭和40年代 車があったのは親友のクリーニング店のみ。

木造店舗兼家は 古くて傾いてましたが、

クラウンに乗せてもらい 首都高を走ってくれた事があり、

その感動から今もクラウンは 特別な車になってます。

当時は町内会で ドリフの「8時だよ全員集合」とか

バスで芝公園へ生中継を 見に連れてってくれてまして

ある番組に参加し ゲームに勝利した子供の私、

多くの景品を頂いた事が 嬉しかったのだが、

町内会長がうちにきて 全ての品を持って行った。

激しく抗議したが「一人のみ不公平」という理由。

間に立たされた親には申し訳なかったけど

「日本は世界で唯一成功した社会主義国」と

言われるところですが 特にこの頃に育った区では

社会主義的な感じが強かったと思いますね。

 

良く言えば 小6生が低学年の面倒を見る 番長制度。

平等に地域で子供を守り 育てるはいいのだが、

風邪で休んで本屋に行けば 翌朝は担任にバレて、

ビンタをくらい「休んだのは仮病か!」監視社会、

平等かと思えば ブラスバンドの太古は優等の役、

納得がいかない事が 多々な幼少期の区でしたが、

子供が変な方に曲がろうとすれば

真っ直ぐに直されたのには違いないか。

 

仕事で母親が怪我をして 自転車の後ろに乗せ

病院に連れていった交差点は そのまんま。

そして自転車を盗まれ、乗ってる子を見つけたのもココ。

「喜怒哀楽」が詰まった交差点ですかね。

石神井川は大雨が降ればギリギリまで増水し

それを見に行って自然の驚異に驚いた。

まだ築50年を超える家が多いのは 再建築不可だろうか。

4mの道路を確保すりゃ 土地がなくなっちゃう事情。

やんちゃ坊主時代に 石神井川に降りたはいいが

登れなくなり 番長に助けてもらった思い出・笑

とっくに廃校になった小学校は解体されず、

みんな~どこに行ってしまった「漂流教室」か。

熱を出して身体を温めようと、

母が連れて行ってくれたラーメン屋は現存。

昔から私は 喉を乾燥させた時点で オシマイだった。

訪ねると「地元の人でしたか!」歓迎してくれる店が多いが、

既に店主は子孫ならともかく まったく違う人が殆ど。

母が働けない間、エレベーターが無い5階建てを

登り降りし配達の仕事をした団地も健在するが、

なにしろ人の気配がなくなってしまったな。

マンモス団地のUR高島平団地も 住民の高齢化というが、

5年、10年後はどうなっているのか 。歩活=18,526歩

worldwidetraveler.hateblo.jp

worldwidetraveler.hateblo.jp