江戸時代から 京都の人々の夢(疎水船の旅)
「琵琶湖の水を京都へ!」実現に動き出したのは、
明治時代の政治家、京都府知事 北垣国道と
土木学生(現・東大工学部) 田邉朔朗との出会い。
明治維新に際し(東京奠都)東京が事実上の首都になり、
京都は人口減少し、衰退したのだそうだが、
琵琶湖の水で京都を再生しようと動き出した、
政治家 北垣国道と、21歳の技術者 田邉朔朗。
明治時代につくった人工運河を船で上る旅。
びわこ疎水船の乗り場は、蹴上インクラインの上、
写真の左手、下流は南禅寺の水路閣に流れます。
京都の夢の実現に向け、当時の政治家は偉かった。
21歳の技術者が率いる、建築に関わった400万人の労働者
建設機械なく、全て手作業だったという事実、
当時を想像しながら、びわこ疎水船に乗り込んだ。
京都から琵琶湖までスピードをつけてボートは上る。
見所の一つは トンネル出入り口(まず第三トンネル)
三条実美の揮ごうによる「美哉山河(うるわしきかなさんが)」の扁額
「なんと美しい山河であることよ」という意味なのだそうだが、
明治時代に日本人が手作業で彫ったのだ。
850mのトンネルを抜け、反対側の入口
松方正義の揮ごうによる「過雨看松色(かうしょうしょくをみる)」の扁額
第1疏水に架かる橋(下写真) 日本初の鉄筋コンクリート橋
第一疎水 第二トンネルの入り口
「随山到水源」とは、「山にそって行くと水源にたどりつく」という意味
先人の夢を想い、疎水船は琵琶湖に向け 上流へ上ります。
水路が広くなり写真右手は浅瀬。船を停め荷物の積み下ろし、
当時の子供達は、ここで水泳を覚えたそうです。
散歩をする方々が手を振ってくれます。
下の写真は緊急遮断ゲート。阪神淡路大震災の経験から、
下流域の堤防が決壊した際には、自動遮断し水を止める。
琵琶湖へ最後の第一トンネルに「廓其有容」の扁額。
「疏水をたたえ悠然と広がる大地、全てを受け容れる器を有する」
山を貫く 全長2436m のトンネルは山頂から垂直に穴を掘り、
両側に掘り進め、工期を短縮する竪坑方式を採用。
第一トンネルの壁面には、明治時代の政治家、
京都府知事 北垣国道の 疎水工事の解説が流れます。
トンネル通過時に、第一竪坑、第二竪坑の穴が確認できる。
第一トンネル琵琶湖側の入口には 伊藤博文の揮ごうによる
「気象萬千」の扁額「様々に変化する風光は素晴らしい」という意味。
その上に、明治時代の設計工事指揮者 田邉朔朗が刻まれ感動しました。
びわこ疎水船を降りて、向こうが 第一トンネル琵琶湖側の入口
びわこ疎水船、京都から大津琵琶湖まで撮った、
動画の切り貼り写真でしたが、下に動画を。
2倍速で見て頂くと、10分超え動画も早くご覧になれます。
(名ガイドのチャーリーさんの解説入り)
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