青函連絡船は、青函トンネルが開通するまで、
明治41年から 昭和63年まで80年間運航。
連絡船は、北海道の函館と 本州の青森を結ぶ大動脈、
乗客のほか重要物資、昭和の主力資源(石炭)を運搬したので、
戦時は米軍から、真っ先に攻撃されたと聞きました。
特徴は、船内に線路があり 船尾の可動橋で陸上の線路と繋ぎ、
鉄道車両・貨車を、走らせて船に載せる事が出来る。
今回は、国鉄の航海士だった人に 案内していただき、
貴重な仕事経験をされた方でしたが、
「明治時代に良く考えたね」と、改めておっしゃっていました。
私は この路線に乗ったのは 昭和50年頃だったと思う。
私の蔵書、昭和の国鉄時刻表を見ると、
電車3段寝台 特急ゆうづる1号は、上野を19-50に出発し、
途中駅は水戸、平、仙台に0-26着。
その後は青森 5-08着まで止まりませんでしたが、
どこかの駅か信号所で、乗務員は交代したのでしょうか?
早朝に青森駅に着いたら、足早に連絡船に乗換えます。
(※電車に乗ったまま 連絡船に載る訳ではないです)
ほぼマンパワーという時代、僅か15分の乗換時間が凄いです。
昭和29年9月 台風15号・洞爺丸台風
カロリン諸島で発生した台風は、九州上陸後も衰える事なく、
日本海を 時速100㎞以上の高速度で北上し 北海道へ。
強い風雨のなか、函館港で出航準備中の洞爺丸、
船の船尾から、貨車を載せる 可動橋が地域停電で、
動かなくなった事を船長は知得。
「テケミ(天候険悪出港見合わせ)」判断をする。
船長は、函館が台風の右側(危険半円)なのか気になった。
その後、地域停電が復旧し、船尾の可動橋が動作可能
風雨がおさまり 青空が見えたので「台風の目」と判断。
出航を決断した頃には、また風雨が強くなってきて、
風向きから、台風の右側(危険半円)と気が付いた。
航行困難と判断し、函館湾内で投錨し天候回復を待つ。
時速100㎞もの速い台風ゆえ、通り過ぎるはずである。
ところが台風は、北海道で急激に速度を落とし、
勢力を強め (960hPa ) 長時間の暴風雨となる。
船尾の開口部(昭和29年は扉が無かった)から海水が侵入し操船不能、
暴風に錨は引きずられ、22-26 砂州に座礁し 22-39 SOS、
22-45 転覆し七重浜沖300m 洞爺丸は沈没した。
洞爺丸台風で、沈没した貨客船は、1隻と思いきや、
青函丸、北見丸、十勝丸、日高丸の5隻もが、
悪戦苦闘の末、函館湾内で沈没したのは驚きです。
原因は、モンスターのような 台風15号の動き。
当時の気象観測では、予測は困難だったようです。
下記は、4年前に摩周丸に行った時、撮った動画ですが、
この時は、七重浜にも行ってきました。
乗客が乗っていたのは、洞爺丸1隻、乗客乗員 1,155名が亡くなり、
船長に救命胴衣はなく 双眼鏡を首から下げて 8日後に発見され、
国鉄の定年退職を目前にし 54歳で殉職した。
洞爺丸台風を テーマにした映画は、
「飢餓海況」「あゝ洞爺丸」 があるようです。
函館市青函連絡船記念館 摩周丸
ある程度、知識を持ってから行くと 大変興味深い記念館です。