早期リタイア・アウトドア旅行&日常備忘録「還暦プラス」

65歳を待たず早期リタイア後の日常生活・東京拠点 国内外アウトドア&温泉旅行記

昭和一桁生れ「父の日記・私の歩んだ道④」居候を転々バイトと大学・結核の疑い就職出来ず

昭和29年 (1954年)・・・22歳

米10K 765円、防衛庁、自衛隊発足。

 

3月26日 兄貴が結婚した、相手の人は長野地方貯金局に勤めていた。

 

7月になって日発のバイトはクビになった。

日本発送電の跡地は中大へ売却し、

精算会社は近所のビルへ移って、残務をやっていくようだ。

 

9月 母と会津へ行く。母の実家のある片貝や叔母のいる塩の原を回った。

 

足立区の下宿先の辺り、宅地化となり養豚、養鶏の仕事がやりにくく、

荒川の向こうへ移転する事になり、住まいを探さねばならなくなった。

 

義姉の母親の弟が、有楽町の日劇前で割烹と雀荘 をやっており、

11月から居候をさせてもらえる事になった。

社長は岩手の花巻で牧場も経営していた。

 

当時の数寄屋橋の下はドブ川で、川沿いに店を持っていた。

規模は大きく、調理人は四、五人そして仲居、下働きの人も。

雀荘の方も、五人ほどの女性従業員がいた。

 

居候の身分、専用の部屋があるわけではないし、

客が帰って、掃除を手伝い 片づけした後まで居場所 がない。

食事は、調理場で皆と 残ったものを頂いた。

 

岩手から来た、山影さんという人がいて、仲良くしてくれた。

彼も同じ、明大の法学部へ通っており、

私のように バイトをしながら  勉強をしていた。

 

こういう世界の居候は初めてで、彼がいなかったら、

一週間も住めなかっただろう。

 

最初は、部屋もバイトも 心配ないという話だったが、

実際は違い、大学の図書館で22時の閉館までねばって、

帰りは店の横の狭い階段をこっそりあがり、

閉店を待つという、全く惨めな毎日だった。

 

昭和30年(1955年)・・・23歳

清酒一升835円 新聞月333円

 

1月17日 兄貴のところに長男が生まれた。

戦後10年たっても、不況とインフレが続いているが、

それでも世の中は落ち着いてきた。

 

米は配給制度で、食堂では米飯は食べられず

うどんを食べたが、戦時中に比べたら幸せだ。

この頃、無理をしたせいか、体調が悪く疲れるし、

講義を聴いて勉強していても睡魔がおそう。

 

3月に弟が、明大商学部に合格したが、

居候の身で、一緒 に生活する場所はなく、

国分寺に住む田村さん宅でお世話になることになった。

 

母の従兄弟で、満州(現在の中国・東北)の満鉄に勤めていたが、

戦後は日本に引き揚げ、国分寺にある国鉄教習所の教官で、

隣接する国鉄宿舎に住んでいて、一緒に寝起きを共にする。

 

なにしろお金がない。銀座三越でバイトを始めた。

7月からは 銀座郵便局でバイトができるといわれ、

また、弟が申請していた奨学金が受けられた。

 

伝手を頼り 下宿や居候を 転々としたが、

生活の目処がたち、兄弟二人の自炊が始まった。

しかし老朽化した 四畳半の部屋の外は田園で、

火は七厘に板きれをくべ、水道はなく、

水は井戸だったから、夜帰ってからの炊事は大変だった。

 

バイト先の郵便局は、西銀座五丁目にあり 猛烈に忙しかった。

倉庫だった建物を改装したから、8畳くらいの狭い場所で10人が働き、

窓も無く、夏は蒸し風呂状態で地獄だ。

 

昼食は、倉庫の中の、巾1米位のところ でとった。

毎日、仕事が終わるのは遅く、帰宅は22時だった。

 

弟がいるときは、夕食の用意をしてくれた。

バイトの日当は 280円で月収は6500円位、部屋代は2500 円。

大学三年までは順調に単位を取得しておいたから、

多少ゆとりが できてバイトに専念できたが、

そうでなければ、勉強して炊事、洗濯までとても出来ない。

 

12月末迄に 部屋を空けるように言われ、また引越だ。

今度は、岩倉さんの二階で六畳間に居候。

 

昭和31年(1956)日本が国連に加入、神武景気、

米10k 765円、卵99円、牛乳13円、理髪140円

 

いよいよ卒業の時期になったが、就職が決まらない。

2月、一日も早く職を決め、親を安心させなければ。

苦労して大学を出てという気持ちもあったが、

とりあえず勤めようと決心し、身体検査を受けた。

結果、 右肺上部鎖骨の下に 結核の影があり不採用。

 

戦時下とはいえ、小学6年生では健康優良児童だったし、

無理をしたが健康には自信があった。

 

納得がいかず 病院で胸部を断層で撮ってもらう。

 

バイト先の郵便局は 結核の巣窟で、郵便物を処理する時に郵袋という、

布製の袋は、大量な埃が出て、労働環境が劣悪だった。

 

3月25日 卒業式を迎え、弟を一人東京に残し、長野へ帰る。

就職難 毎日やる事がない苦痛は 耐えられない。

 

8月に入り、銀座の郵便局からバイトの予算が入ったと連絡が。

8月15日 再び上京しバイトで食べていく事が出来た。

11月に入り、胸部のレントゲンを撮りに行く。

しかし、結核の影が出ている以上、就職先はない。

 

採用後、結核が原因で病気になった時は、

自発的に辞めるという条件で職探しを始めた。つづく。