父が亡くなる寸前「生きた証(あかし)」を気にしており、
戦争前後に生きた、父の日記(ワープロ打ち)をテキスト化し、
ここに記録として、載せたいと思いました。
天国の父も喜ぶと思いましたので、よろしければ。
ここから父が書いた記事です。
平成九年、四十余年勤め 65歳で完全に定年退職し、
終の棲家と定めた九十九里の地に、東京から移ってきた。
荷物を整理していたら、昭和26年(1951)からの日記が出てきた。
他の人には、なんら価値のないものだが
生きてきた証として、ワープロで記録しておこうと思いたった。
しかし、なかなか筆(キーボード)がすすまない。
少しづつ始めることにする。
1932年(昭和7年)2月、長野市で次男として生まれた。
父は、猪苗代湖のほとりにある、福島県月形村で、
姉二人に次いで 三人目の子、長男として生まれた。
姉とは かなり年が離れ、婿養子をとって相続したので、
洋服の仕立て職人に なるため上京した。
母は、福島県南郷村で、兄姉に続き次女として生まれた。
やはり洋裁の勉強のため、上京して二人は知り合い、
東京都世田谷区駒沢で世帯をもち、昭和 2年 兄が出生した。
その後、知人を頼って長野市に移り住み、
長野県庁の側に、洋服店を開店した。
善光寺の門前町として古くから 開けた処である。
現在は近隣町村を合併し、35万都市にまでなったが、
戦前の市内は、端から端まで歩けるほど狭い地域で、
人口も6~7万人位ではなかっただろうか。
当時は、着物が主流で、洋服を着るのは
県庁の役人や、学校の先生など一部の人で、
一般の人が着る程、普及していなかったし、
新入職員の一ヶ月分の給料と言われる程高価なものだった。
住んでいた場所は 当時としてはかなり斬新で、
車もほとんど通らないのに、車道、歩道ともにかなり広く、
街灯もあったし、上下水道も敷設されていた。
終戦直後、良くこの道路で野球をした。
弟は、昭和10年生まれ、昭和14年生まれ。
前述の兄と、男ばかりの四人兄弟だった。
(ちなみに写真の若い女性は 父の姉か妹で、
早くにして 亡くなったと聞いた事があります)
つづく。