前日の20時に 岩手県の雫石スキー場から帰宅し、
翌朝はいつも通り 駅の「掛け蕎麦」を食べて、
夕方まで仕事の予定でした。
14時46分に揺れが始まり 軟弱地盤に建つ高層階は、
未経験の大きなもので建物が倒壊すると思った。
周りを見れば皆、恐怖でいっぱいの顔だった。
同僚は冷静で「窓から離れろ!」と大声(あるべき姿)
這うようにガラスから離れる仲間。
情けない話、私は何もできなかった。
揺れが収まり頭をよぎったのが「関東大震災の火事」
しかし 過去の教訓が生かされた街つくりになっていた。
それから目の前の事をこなす仕事が翌日まで続く。
運が良く家族の職場に電話が繋がり 無事が確認出来たが、
テレビを見れば 沿岸は10mを超す 大津波警報。
この頃は両親が 海岸沿いに住んでいたから
「もうダメだな」と思いながら働いた。
未明に仲間たちが 遠くは30kmも歩いて出勤してきた。
既にコンビニ等で食料は売ってなかったという。
明け方には 気を失うように廊下で倒れ寝ていた。
翌朝は皆が「連絡が取れない両親は?」と、
消息を確かめるために 行ってみる事にした。
電話は基本的に繋がらないから。
地面が割れてる。
規制線が張られていた。
見上げると雑居ビルの窓が多数割れている。
駅の構内には 多くの人が避難し一晩を過ごしていた。
昨夜は帰宅が出来ず、電車を待つサラリーマン。
ホームまで数百メートル 列は崩さず整然と並ぶ
「日本人は凄い」と世界から絶賛される事になる図だ。
(この時の皆さん 家族の消息は知らないと思う)
電車は運転再開後も 30km/hの低速度で
線路の点検を行う情報もあり、
私は諦めて 職場に戻り仕事をする事にした。
やはりスーパーから食料品が消え売っていなかった。
買占めという話もあるが「納品停止」物流が止まった。
レジの人は電卓で会計をしており、電子マネー使用不可。
これからは「少しでも現金はもっておこう」思った。
それから ガソリンスタンドも長蛇の列。
こちらもタンクローリーが来ないので、
売り切れ、燃料が手に入らない。
この時から「常に満タンにしておこう」思った。
埋立地にある店舗は沈下し
液状化現象で砂泥が噴き出した痕跡がみられた。
両親は 介護施設に避難している事が解った。
発変電所の停止で電力不足となる。
毎日一定の時間は電気が使えない計画停電
節電生活が始まり街は真っ暗になった (お台場付近)
今後は電車も動くか解らないという事で
通勤用に中古のオートバイを急遽に入手。
波乗りをしていた海岸に行ってみたら、
道路まで泥だらけで 津波の痕跡があった。
ここまで波が来たという事は 5m~海面上昇したんだ。
千葉北部の飯岡では津波の被害が大きく、
車が2階の高さで浮いていたという話を聞いて、
これにはいささかショックだった。
津波が来る前は潮が大きく引いたというから。
戦争もだけど、忘れてはいけない教訓。
地震の影響で 仲間でも家が傾いてしまったり、
大きな被害にあわれた方を思えば胸が痛くなるし、
インフラ復旧作業に向かった友人は大変な毎日となった。
しかし 2日前の昼前に岩手県で遭遇した震度5の地震が、
前震だったのだろうが 予知なんて無理だったし。
津波さえ来なければと 大好きな海が憎くく思えた日。