我が人生の不思議 の一つ、昭和50年代 多くの高校生は、
オートバイに乗っていて、私も16歳で免許を取った。
父は「バイクに乗れたら仕事のチャンスが広がる」と。
時はオイルショックで、原油が高騰し国内景気を直撃、
インフレ物価高、長期の不況で先行き不透明だったようだ。
ウチも同級生宅も、裕福な訳がないのにバイクが買えた不思議。
既に父は天国なので知る事は出来ない。
40代にして父が普通免許を取ったのもこの頃で、
夢だった車やバイク、庶民に手が届く時代になり、
とにかく免許を取ろう!という時代背景も。
教習所や鮫洲試験場は賑やかだった。
初めてバイクが来た日、後ろに父を乗せて走った。
今、私が父と同じ事を子に出来る勇気はなく、
思えば、オヤジは大きい存在だった。
少年チャンピオンの「750ライダー」が人気で、
友達が集まりゃバイクの話でもちきり。
従兄弟の兄貴はHONDA CB550Fに乗ってたし、
日常的に郵便配達のバイトをしていたから、
局員はカワサキ z2やらスズキGT750で通勤、
バイク好き高校生ライダーの私を可愛がってくれた。
社会で出会う経済自立した大人達に憧れた。
ちなみに配達の仕事はバイクではなく、貨物用の重い自転車だった。
高校はバイク通学は禁止だが、
バイトに行く為に校則をしばし破った。
先生も余程じゃなきゃ黙認してくれていた気がする。
しかしバイクに乗ってきゃ部品やら盗まれる。
私もメットを盗まれ、交番に行ってお巡りさんに相談した。
「きょうはイイから!途中で止められたら言いなさい。」
初めて環七をノーヘルで走ったが、エンジンやカムシャフトの音、
メットかぶってりゃ聞こえないから新鮮だった。
あの頃の警察官は恐かったが人情味があったな(時代)
バイクに乗る目的はバイト先に行くのが主。
ヨーカドーのバックヤード、事務所の掃除、
750ライダーの光君みたいに、スタンドでバイトしていたヤツも。
当時、暴走族が社会問題になったが、
私らは改造しない。集団で走らない。「正統派ライダー」と呼ばれ、
日曜は奥多摩、秩父や江の島へ、ポリタンクのガソリンを積んで、
今、思えばとても危険な事だが、
オイルショックで日曜はスタンドやってなかったからだ。
ツーリングのエピソードとしちゃ、
冬の奥多摩で「橋の上は凍ってるかも?」と徐行で。
案の定滑って、転倒は免れたものの、橋の欄干に接触。
ブレーキレバーが折れた。
奥多摩から下山道は前輪ブレーキが使えないぞ!
エンブレと後輪だけ?無事に帰宅したのは運が良かった。
整備としちゃ、オイル交換やキャブの清掃、友達とやった。
バイクは加速が良いから後輪タイヤがスグ摩耗する。
タイヤレバーを借りて自分たちで交換したが、
自転車みたいに簡単ではなくホイールが傷だらけに。
ダンロップのTT 100というタイヤが安く人気だった。
当時は高校生のバイク交通事故が激増した。
調べたら今のコロナウイルス死亡者の比ではない。
日本各地の高等学校では「バイク三ない運動」が展開。
1,免許を取らせない 2,乗せない 3,買わせない
私にも、悲しい知らせが飛び込んだ。
友達がオートバイの事故、頚椎骨折で即死だった。
一緒にいた友に聞けば、一瞬、立ち上がって倒れたという。
バイクのフロントフォークは折れ曲がり、
彼は母子家庭で、母と子、2人でアパート暮らしだった。
私は友が亡くなった事はショックだったが、
女手一つで、高校まで育てた最愛の息子を亡くした母の姿。
桐ケ谷火葬場で。重みに耐えられず涙がこぼれ止まらなかった。
高校3年になると、進学や就職の勉強を始めたんだ。
400cc以上の中大型バイクは2年毎に車検があったタイミング、
整備しバイクを維持するお金もなく、皆バイクから降りた。
その後「三ない運動」で、バイクブームは急速に去った。
高校生の乗り物だったバイクは、今、少数大人の趣味に。
三ない運動の「高校生をバイクで死なせない」効果は絶大、
乗る機会を奪った訳だから。
「危険だからやめる」やらなきゃ安全なのは当たり前、
しかし交通教育的なものは無く、
危険予知能力が育つのか?とも思う。
先輩や友達から、何が危険?どこが危険?得た事も多く、
その後、普通車や大型2種の免許も取った訳だけど、
無事故無違反で、バイクの存在を意識した運転をしている。
高校生活の僅か2年だけど、バイクは多くの経験を私にくれた。