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昭和一桁生れ「父の日記・私の歩んだ道②」日本は戦争に突入!昭和16年・太平洋戦争

私は (父) 昭和13年、山王小学校に入学した。

昭和16年 (1941) 国民学校と名称が変わり、

この年の12月8日 太平洋戦争(第二次世界大戦)に突入した。

しかし優勢だったのは緒戦だけで、

圧倒的な敵の物量の前に 日本は劣勢となり、

1943年 学徒出陣 殆どの大学生が戦場へ送りだされた。

 

ますます戦況は不利となった翌年、

学徒動員と言って 女子高生までも 戦時工場へ。

17才以上の男は 障害のある人を除き 全て兵役に編入され

町からは、若い男や壮年の男性は姿を消 した。

当時、私はかなり身体が大きい小学生で、

大人と一緒に 防空壕堀り、畑仕事をやった。

 

さらに戦況が不利となるにつれて、 食料も不足した。

校庭や河原まで耕して、芋などを作った。

小学五年生の頃から、殆ど授業はなかった。

 

教育というものは、先生によって左右される。

体格の良い者は小学校を卒業すれば、

少年飛行兵となり、国の為に死ななければならない。

そのような教育がなされ、私は覚悟をした。

 

また、世間の雰囲気もそうであった。

その頃、兄は中学を中途で、茨城県土浦にある予科練に入隊。

 

私は兄の事が、いたたまれなく心配で、

「中学校を出てからでも遅くない」と再三手紙を送った。

 

そのかいあって、昭和19年中学へ再入学した。

中学と言っても 在学は五年間で 現在の高校にあたる。

 

ここでも 勉強どころではなく、農家への勤労動員で、

二年くらい先輩まで、軍隊や工場へかり出された。

 

そして 昭和20年 長野のような地方都市にも 疎開命令。

8月15日 日本国は連合国に対してポツダム 宣言を受託通告。

ようやく終戦となったが、 ますます物資は不足し、

教科書は アメリカに都合悪いとこ ろや

軍国調の箇所は墨で塗りつぶしたり、新聞紙のような教科書だった。

 

軍国主義から民主主義へ180度も変わってしまったのだから、

先生も何を基準に教えてよいのか 判らなかったのだろう。

 

当時は、何一つとして良い思い出は無く、笑った事もない。

その後、食料はますます底をつき、東京ほどではないが、

食べ盛りの子供を抱え、母の苦労は大変なものだった。

白い米は口には出来ず、スイトン・ 芋・カボチャが主食。

 

昭和26年となり 食料不足、物不足は続き、

敗戦年の昭和20年、米10キロ 3円57銭だったものが 515円

物価は、相当なハイパーインフレだった事が解る。

 

そして 民間放送が始まった、少しづつ経済が立ち直り、

味噌、醤油など一部の品 が自由販売となった。

それまでは 統制経済で全ての品はキップ 制になっていた。

 

前年 25年6月 朝鮮戦争が勃発し、どん底まで落ちた日本経済は、

この特需景気により回復の兆しをつかんだ。

 

さらに、全ての戦力 を放棄されていたが、

これを期に、現在の自衛隊の前身となる警察予備隊が発足した。

 

私は、高校卒業も近づいた1月になっても、

信州大学を受験するか、 東京へ出るか決めかねていた。

 

現在も、平成不況といわれ 大変な就職難で、

さらに、リストラで失業者が溢れているが、

終戦後の当時、就職は本当に絶望的であった。

 

自分の事は自分で決めなければ。

兄は戦場に行く事なく、県庁に高卒で就職出来た。

家業の洋服店を継ぐと思っていたが、

親父の仕事も戦争が激しくなるにつれ、

同業者が集まって仕事を するようになっており、

戦争が終わっても、以前の生活には戻れなかった。

 

母は 子供には学問させ、サラリーマンにする事が夢で

自分の洋品店を訪れる、県庁の役人や先生を見ていて、

我が夫婦のような、収入が不安定な商人より、

4人の子供達を、堅実な仕事につけさせそうとしていた。

 

経済的に苦しかったはずだが、長男を除き大学受験へ。

私は地元の、信州大学工学部を受験することを決心。

駅弁大学と言われたように、戦後は各県に国立大学が設置された。

旧高校 や戦中にできた専門学校を統合昇格させたもの。

 

信州大学は松本、長野、上田、飯田と県内に点在し、

総合大学とは名ばかり、工学部も長野工業専門学校が昇格。

校舎はバラック同然、施設は 貧しかった。

 

他に選択肢もなく 猛勉強をした。4月3日が合格発表。

夕刊に 私の名前が載っていて、合格を知った。

 

大学は 戦後の荒廃から立ち直れず、

講義は教科書もないし 講義を書き取り 清書する。

内容は高校の復習のようなものが多く、

想像していたものとは だ いぶ違ってやる気をなくした。

 

10月になって東京に行く機会があった。

当時は 長野から東京まで 汽車で七時間かかったし、

情報は ニュース映画や新聞のみで知る時代、

 

実際に何校か大学を見て廻り、街の雑踏を歩きまわって、

カルチャーショッ クをうけたのだ。

どんな苦労をしても、東京へ行こう!という願望。

 

1952 (昭和27年) 信州大学を中退、東京行きを決める。

しかし東京には 頼れる親戚はないし、

家も経済的に厳しい為、心がゆれていた。

 

ここで、兵寿兄のことについて、書いておかなければならない。

私には、従兄にあたるが、年齢は母と同じくらい。

どうして年が離れているのかというと、

前にも書いたように、父と姉の年が離れており、

その長女の子だったから、私には叔父といった感じだった。

 

彼は逓信講習所を出た後、東京中央郵便局に勤めており、

世田谷の駒沢で、所帯を持った私の父母のところに

良く遊びに行っており、絆は深い関係。

 

頼るところは彼しかなかった。

戦後の住宅難で、住むところまでお世話になった。

彼は子供が5人いて、6畳一間のところへ割り込んで、

寝るのだから誠に心苦しかった。

しかし夫婦とも、別に嫌な顔もせず、面倒をみてくれたし、

この後もずっとお世話になった。

そして、明治大学政治経済学部に合格し、

ふとん一組と、トランク一個を持って上京した。

 

そして母の従兄弟が、東京都北区で小さな店を営んでおり、

この人の世話で、下宿先が決まった。

王子駅からバスに乗るか、都電で神谷橋まで行って、

30分くらい歩いたところにあり

荒川を渡り、荒川放水路に囲まれた、島地形だ。

地名は足立区新田町で、このあたりの地主だったようで

家は邸宅といえるほど立派な建物だった。

 

良い家庭で 自分の息子のように 私に接してくれた。

 

ここで、一寸農地解放についてふれておく。

戦前、農家は自営と、小作人と言われる人に土地を貸し、

年貢を取る人がいた。

戦後、不在地主といわれる人の土地は取り上げ 小作人に与えた。

 

現代では不可能だが、占領軍の命令とあっては、従うしかない。

 

この頃は 米は配給制で、配給キップを持っていかないと、

食堂では米食は食べられなかった。

下宿先では養豚と養鶏をや っていたので、

食べ物には 比較的恵まれていた。

 

明治大学は、校舎は立派だが、信大と同様講義はつまらない。

休講も多く、全学連など 学生運動がどこの大学でも盛ん。

戦時中と大差なく、勉強どころではなかった。

 

皇居前でデモ隊と、警官隊が衝突する血のメーデー事件があったが、

この頃は、共産主義を至上とする風潮があり、

大学内は過激派が主導権をにぎり かなり荒廃していた。

worldwidetraveler.hateblo.jp

裏話としては、鳥の餌のような、ひえ、あわ、きびを食べても、

末っ子だった母や、現存の叔父は「白米」食べたという。

いつの時代も、末っ子は可愛がられて得?

つづく。。。