早期リタイア・アウトドア旅行&日常備忘録「還暦プラス」

65歳を待たず早期リタイア後の日常生活・東京拠点 国内外アウトドア&温泉旅行記

昭和一桁生れ「父の日記・私の歩んだ道③」戦後の大学、53歳で父が他界

昭和26年(1951年)・・・19歳

欧米の大学は、入るのは簡単だが、卒業は難しいという。

専門の内容を充実させ、身につけて社会に出ないと、

これからは世界の競争には勝てないだろう。

 

まして、あまり勉強しなくとも、文化系は卒業しているのが実状だ。

はりきって大学に入ったが やる気をなくしてしまった。

下宿代や、学費は親から送金はあるものの、

経済的にはとても苦しい。

長野の知人で、日本発送電会社の役員のお世話になり、

日給200円のアルバイトを始めた。

日本発送電は日本中の電気を作っていたが、

現在の各電力会社に分割され、その精算事務をしていた。

この時の日記を読み直してみると、大学は半分くらいは休講で、

登校し掲示板を見て、休みを知る状態で、ストも多かった。

 

バイトの会社は年末で殆ど精算事務は終わり、

社員は東京電力へ移り、アルバイトは全員クビになった。

しかし私は昭和28年に再雇用され一安心。

この年 NHKがテレビの本放送を開始した。

 

八月のお盆に帰省したら、親父がすっかり痩せてしまった。

胃ガンということで、腸にまで転移してしまい、

すでに手遅れで手術は出来ないという。

12月になって、危篤の電報に急いで帰ったが、

12月23日、枯れ木が倒れるように永眠した。 まだ53才だった。

 

我慢強い人で、痛いとか苦しいなど一切言わなかった。

親父は職人、仕事一筋で他の事は何もできない。

戦争で物資やお金を失って、全て母がきりもりした。

 

親父の思い出は、朝から夜遅くまで仕事場に座って、

お酒が好きで強く、仲間が来ては飲んでいた。

そして夜遅くまで、花札やカルタを やるので、

我々子供も一緒にやったことを覚えている。

戦時中は酒も配給制となり、戦後は手に入らなくなった。

 

しかし、あれだけ衰弱しても、亡くなる二三日 前まで

仕事の注文を受け、受けた分は全て仕上げたという。

母の多大な内助の功があったとはいえ、一家六人の家計を支えた。

殆どの 家は高等小学校を終えると働いた時代、

子供にはそれぞれ、教育を身につけさせてくれた。

世の中がもう少し豊かになり、子供のうち誰かが結婚し、

孫の顔を見るまで 生きていてほしかった。つづく