リタイアし 生きてきた時代の背景を探るのが 楽しい。
小学生の頃は 社宅や官舎、都営住宅が建つ区で育ち、
どの家も似たような価値観で 絆が深く皆 知り合い。
放課後は高学年が チビの面倒を見ていた。
バナナを食べた事がない 1ドル360円 固定相場。
車があった家は 洗濯屋を営む自営の親友宅 1軒のみ。
1970年の大阪万博に行った一家は 地域のニュースだ。
殆どの家庭は 住む区から出掛ける事なく 用が済み、
お互い見守り、面倒見たり見られたり、
プライバシーは全くないが、
ごっちゃりいるのが幸せで 楽しかった。
1973年に円が変動相場後も ずっと円安と思っていたが
調べたら 1985年のプラザ合意まで、
1ドル200~300円 乱高下が凄まじい。
高度成長期に育ったとはいえ、2回も石油危機があり、
原油価格は3年で3倍、物価高 経済成長減退という
親は家計のやりくりが大変だったろうが、
空襲警報で防空壕に隠れ B29による東京焼野原を生き抜いて、
平和に暮らせるだけで へっちゃらだったのだろう。
私は「親の心 子知らず」就職は難航を予知した親父は、
「バイクに乗れりゃ 食べて行けるだろ!」と、
免許を取らせてくれた バイクブーム時代もあった。
卒業し 採用試験に合格しても 準職員という身分だが、
全寮制学校を出て 早期に正職員となれたのは、
東北新幹線開業に向けた事で 今 思えば運が良かった。
それまでの先輩達は 就職しても 臨時雇用員のまま、
定員に空きが出るまで「石の上にも三年」就職難。
検修職場、NHKの朝ドラを見て 体操後に仕事が始まる。
新入りは 先輩が来る前に 大きなヤカンを火にかけ湯を沸かし、
お茶を入れて出すのが 最初の仕事。
大先輩ほど 早く出勤するので 7時半には行って準備をした。
今じゃコーヒーだが この頃1ドル270円、洋物は買えぬ純国産だ。
どれが誰の湯のみ?毎朝 顔ぶれが変わるから、
間違えた日にゃ 怖い先輩に酷く叱られた 昭和の時代。
まぁ、その経験が人生において 良かったと言えば、
今も 腰が軽く すすんでお茶を入れてる私・笑
親戚の集まりで 従妹たちが「兄ちゃん やめて~」と。
私は 自分が動くのは 苦だと思わず 好きだし、
男女は平等の時代だろ!とはいえ、
女性陣には かえって 気を使わせちゃうんだね。
豊かさを感じるようになったのは プラザ合意後、
円が強くなって 1ドル150円で初めて海外に行けたから、
今以上に円が安くなれば 国内回帰って言っても、
昔は都内にも工場がたくさんあった モノづくり日本。
円安は輸出に追い風だった時期もあったが、
物作りは中国へ、工場跡地にマンションが建った。
もはや円安は 恐ろしい事しか 起きない気がするよね。
仕事前に皆でお茶飲みながら NHKの朝ドラ見て 元気をもらい、
お金もないが 不安もなかったんだよな。あの頃。
おかしな事になったのはバブル時代から。
今もひきずり「バブルは良かった!」って?そうは思わん。